棕櫚

人は

こんなにも

あんなにも

ひとりひとりだというのに

あなたはオレンジの果肉を搾り

コップの底に小さな輝きを造り出す

創造者であり続けている

薄明かりに群がる虫たちの悲しみとて

はかるものはないというのに

あなたは恵みを受けた大地のように

麦の穂を掌上に静かにたゆたわせ

その意味を噛みしめるが如く微笑んでいる

よく晴れた日の心地のよい風を思い出すといい

あなたが窓辺に架けた湖のかけらを思い出すといい

迷いのないあなたの眼差しは

長い秘密の問いかけのあとにおとずれる悲しい沈黙

私はそれを受けとめるすべも知らないで

ただ唇に流れる血液の赤さだけを凝視している

あなたに嘘はつけないと知ってはいたけれど

無理をしてでも欺き続けようとしたのはなぜだったのか

爪の先の欠けた部分を撫でながら

私は答えを探しだそうとするけれど

あなたの作ったオレンジジュースが

木製のテーブルから床下へと

這いつくばるようにこぼれ落ちた瞬間

私の思考回路は停止してしまい

あなたの輪郭の曖昧な残像が目の前に浮かび上がるだけとなる

あなたが寒さに震えて泣いた日の事を思い出すといい

殉教者達の腕に刻まれた(奴隷)という言葉を思い出すといい

埠頭に停泊する船のマストのように

凛とした態度であなたは私の言葉をまっているけれど

どうしてあなたの悲しげで優しげな眼差しに

私の言葉が近づくことができるというのか

あなたは私の刻んだ時間を袂に絡め取り

夕焼け空のような微笑と春の日にも似たあたたかい掌で

私の悲しい気持ちを逆撫でするのだ

あなたが私を初めて抱いた日の事を思い出すといい

夜の街に火を放った男がいったい誰であったのか

よく思い出すといい

どくどくと流動する血液をあなたは一息に飲み干し

真っ赤に染まった綿のタオルで

私の傷口をふさごうとするけれど

裏切りのつまった腸につける薬など

どこにもないことをあなたはすでに知っているはずだ

微かに揺れる長く藍色をした睫毛の先に私が見たものは

果たしてあなたの涙であったのか?

それとも私の傷口から滴り落ちた鮮血であったのか?

疑問符の数を数えるときりがないことぐらい

解っているはずなのに

私は何度も何度も不毛な問い掛けを

聞き飽きた流行歌のように自分自身に語り聞かせるのだ

あなたが寄る辺なく彷徨い歩いた街の景色を思い出すといい

不親切な女の後悔は何によって見い出されたのか

よく思いだすといい

棕櫚の木の下であなたが笑っている写真には

真夏の空気と見ず知らずの男が張り付いているけれど

今夜私とあなたはこぼれ落ちたオレンジジュースのように

その場に張り付くことも出来ず暖かな室内の空気だけを残して

窓硝子の向こう側に溶けてしまいそうだ

あなたの骨と肉とを執拗なまでに

軋ませた男への慈しみを思い出すといい

正義面した偽善者達が彼らに何をしたのか

よく思い出すといい

天井の梁に巣くう蜘蛛の足をぼんやりと眺めながら私は

あなたの透き通った声が

心地よく耳元を通り抜ける瞬間を待っている

美しさと醜さの交じり合った感情を

愛おしさと憎しみの交差する神秘的な表情で上手に隠し

あなたは私の言葉にならない思いを

喉元に封じ込めようとする

あなたの声は私の肺の黄昏

永遠に誓いあうこともなく骨の過去帳に記されるだけの残骸

あなたの手の中にある私を握りつぶすがいい

あなたの心臓の高鳴りを室内楽として奏でるがいい

瞼の奥で炸裂する戯れ言にのせ私の躰を焼き尽くすがいい!

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