私は涙が越えられない境界を

通り過ぎるのを待つ

あなたは僅かな沈黙のあと

堰を切ったように喋りはじめる

「夜を見くびっていたあなたのせいだ。」

少年は虚ろな目で

少女の鼻先を拳で殴りつける

血が滴り落ち

首もとにぽっかり穴が空いている

「縫わなくちゃいけないな。」

医者がボソリと私に言う

言葉を連ねながら

私はあなたの声を聞く

「どんなことがあっても私は不幸ではない。」

少年はボールペンの先を

母親の頭に突き立てる

憎しみ

あなたは私の指先にキスをする

私の溶けてしまったはずの過去が

少年の唇から囁かれる

私はそれを聞く

私は兄に殺される夢を見る

姉はすでに殺されたあとだ

包丁が私の右脇腹のあたりを貫通する

汗をかきながら躰をかたくして

私は目を覚ます

目覚め立て

いつものように私はぐっと疲れている

やつれた父親が日の当る廊下で眠っている

幼いころ度々私を怒鳴りつけた父親が

命の細い線を必死に手繰っている最中

あなたの声が響いてくる

少年は油蝉をスコッティのティッシュペーパーで

くるみセロテープではずれないように固定する

蝉は鳴き続ける

ライターで火をつけたのは私だ

ゆらゆらした炎につつまれながら

蝉は泣き続ける

私はティッシュペーパーに包まれた

蝉を見つめ続ける

泣き声が止むまで

見続ける

涙を戻して考えられうる点はすでに消滅している

私は眼窩を鋭くえぐられた死体を見据えている

ささくれだった黄土色の皮膚が

右手とおぼしき白い骨片にわずかに張り付き

赤土の粒が至る所に付着している

「私の右手か・・・。」

独り言のように呟く父親の姿は精気がない

あなたは男に抱かれている

喘ぎ声を微かに漏らし

あなたは軽いめまいを覚える

蝉の泣き声は私の記憶の底で鳴り響いている

あなたの吐息と

蝉の泣き声が一致したときの快楽といったら

どう説明すればいいだろう?

「決定的な嘘を付いたときの気分さ!」

少年は笑いながら

粉々に割れた窓ガラスを見やる

あちこちに散らばった破片を

握りしめる少年の掌はかじかんでいる

姉と私は

今はもう

取り壊されて無くなってしまったマンションの

踊り場にいる

夫婦喧嘩?

不安げな面持ちの姉と私は

離婚したら父の所に行くか

母の所に行くか必死になって思案している

その日

雨は振っていたろうか?

空は多分曇っていたような気がする

いや

もしかしたら晴れていたのかもしれない

そのとき

その瞬間の私の気持ちが空を曇らせていたのだ

曇り空

今夜世界のすべてが曇り空

そんな気がする

猫は車にはねられて

段ボール箱に入れられて

引き取り所までは私が車を運転した

あなたの命

人は死の瞬間

生きていたときより七十グラムほど軽くなるらしい

それが魂の重み

わずか七十グラム

その七十グラムのために

私達は

笑い

涙を流し

人を蔑み

苛み

眠れないほど人を恋しく思い

たくさんの後悔と喜びを胸にしまい込む

少年は掌に何を持ってる?

薄く影を作る仄かな灯火

川を流れてゆく幾つもの灯籠

私は叫んでいて

気が付くと叫んでいて

川向こうへと消えゆく光の束達は

何も語りかけることをせず

流れてゆくだけ

ただ

流されてゆくだけ

七十グラムのおもみ

ちょうど

灯籠と同じぐらいのおもみを

胸に抱えて

私は

夜の街を

あとにする

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