月の舟


月のひかりに輝く舟は

とおい昔の記憶をあなたの唇にそそぎこんで

夜の真っ暗な水平線へと

無数の雨粒のような淡い光の瞬きを水面に残して

ただ音も無く静かに消えてゆくのだった


たとえば一つの約束

言葉では置き換えられない感情の螺旋に

物語はいつも不安定な起伏をもたらす

夢遊病者のように足の裏を泥だらけにして

世界がやわらかな曲線に沿って夜空を落下するように

星々の瞬きにそそのかされて

南から吹く風が一羽の鳥にささやかな孤独を与えているように


三度目の電話で彼女は知った  

永い時間の終わりに細胞がひとつの企みを持つこと

終わらない問いかけに聞き耳をたてる滑稽さと

幾つかの短いセンテンスに潜む欲望の刺

錆びた鳥籠の中から聞こえてくる記憶の雨音が

蝸牛に染み渡る緩やかな音階へと紡がれてゆくとき 

世界はすべてはかりごとのようだと

夜空に浮かぶ疑心の舟は静かに櫂を漕ぐ


言葉が徐々に遠のいてゆく瞬間にも

あなたは喋べり続けている

硝子の破片を敷き詰めたような光の宵待月

うすらいでゆく

星を映し音もなく時が欠ける安物のグラスの中で

ゆらゆらと二つの影が揺れる

傾きかけた世界

指先をたどる心の糸が生温い空気に触れるたび言葉から時間がこぼれ落ちる

窓硝子に付着した水滴の透明な光彩

水晶体に刻みこまれたまやかしの火花

手には触れられず

繰り返すことで導きだす感情の哀しい破片


僕らの住む街の空は美しい幻で

パノラマに閉じ込められた絶え間ない光のスペクトルが

月に向かって小さな穴を穿つ


あなたは言葉を探さない

たとえ血液に染み込んだ記憶の残像が

夜空一面流星雨のように降り注いでも

いまだ語られぬ秘密の物語に鍵をかける指先だけが夜の影に染まる


彼女の目に涙が溢れる

過ぎ去った日々の喪失


舟の行く先はだれも知らない 







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